#10 立岩と大成古墳群(たていわとおおなるこふんぐん)
京都の南禅寺に大寧軒という塔頭があります。普段は観光客が入れない場所だけれども、特別公開がときどきあるらしく、今年のシルバーウィークがたまたまその最中で、ちょうど南禅寺近くで暇を持て余していたので中に入ってみたのです。綺麗なお庭でした。琵琶湖疎水を引いた透明な水が流れて、石は苔むしている。ちょっと人が多くてのんびりというわけにはいかなかったけども、一人占めできるのならこんなところでずっと昼寝をしていたいと思います。
ところでその大寧軒のお庭には石の柱が立っています。角ばった一本の柱。お寺の近所に落ちていた石を拾って立てた――というわけではなく、丹後半島の西隣にある豊岡の玄武洞からわざわざ運んだとのこと。玄武洞は「玄武岩」という岩の名称の起源になったという、つまりほら穴が玄武岩の角ばった柱でできている。そしてこの、岩が柱状になって並んでいるのを柱状節理といって、マグマが冷えて硬い岩になるときにある条件の下で自然に形成されるのですが、それを見た人間は形が美しいと言って庭に飾ったりする。天然記念物に指定される前は玄武洞の玄武岩は掘り出されて色々に使われていたそうな。玄武洞自体が、岩を掘り出した穴なのだ。
と、ここまではあまり丹後に関係のない話です。玄武洞は近いけれども丹後ではなく、また京都の南禅寺も同じ京都府だけど丹後から見ればまるで別世界である。なんでそんな無関係な話をしたのかというと、大寧軒で玄武岩の柱の話を聞いているときに思い出したことがあったわけです。それが丹後の立岩。大きな安山岩のカタマリであり玄武洞とは違うのですが、柱状節理で、角ばった岩の柱がずらっと並んでいるのは同じ。それほど有名ではないけれど丹後の観光地のひとつ。周囲は一キロメートル。大きいですね。
この岩が、丹後半島の真ん中を流れ下ってきた竹野川の河口にデンと座っています。もう本当に、河口の真ん中に流路を塞ぐように立ちはだかっている。そういう状態なので、何年かに一度くらい見に行くと、河口の位置が立岩の東だったり西だったりして、頻繁に変わっているようです。
竹野川といえば、海から丹後の奥まで繋がる水の道。その入り口に大きな岩があったらどうなるか。現代人は「これは観光資源になる」と言って絵はがきを作って売ったりします。一方古代人はどうかというと、やはり丹後の人間なので昔っから俗物だった可能性もありますが、ひとまず何かの信仰対象としていた様子もあります。立岩の東の高台にある大成古墳群。この古墳からは立岩の全体を見下ろすことができます。立岩は正面から見た時の存在感が「絵になる」のですが、大成古墳群からの眺めはどこか異様、おどろおどろしい感じがします。古代人はその姿にあの世への繋がりを感じたのか、あるいは単に眺めがいいから墓を作っただけなのか。
大成古墳群へは立岩のある後ヶ浜から遊歩道がありますので歩いて登れます。またあるいは国道178号線からコンクリート舗装の細い急坂を車で上がることもできる。駐車スペースも数台あります。
古墳というと山のような土盛りが思い浮かぶけれど、大成古墳群は土がほとんどない。おそらく造った当時はちゃんと土饅頭だったのが、日本海に面した高台というこの上なく荒波と風雪を浴びる場所であるために千年以上の間にほとんど無くなってしまったのである。そういうわけで中身の石室が見えている。この墓に入った王様も、天井がなくなって吹き曝しになるとは思わなかったであろう。中から見上げる丹後の夏空は高く、青い。
露出している石室。一見するとどこの古墳にもあるような普通の石でできているけれども、実は柱状節理の岩の柱なのです。立岩そのものから取ったのか、または古墳群のある高台の下にも同じ岩が露出していますので、そのいずれかから運び上げたのだと思います。大寧軒の石柱ははるばる玄武洞から取り寄せたものでしたが、こちらは地元の石を地元で使う地産地消です。調べたところによると立岩が形成されたのは今から千五百万年ほど昔の、日本列島が大陸から切り離された時代。それを千四百年前(万は付きません)の古代人が切り出して古墳を造り現代人が見ている。長い歴史の産物です。
数年前に展望台が整備されたようで、古墳群の近くから日本海を眺めることができるようになりました。立岩から竹野漁港、その向こうの犬ヶ岬まで。立岩での海水浴のついでにちょっと遊歩道を上るだけで、日本海の絶景と古代丹後の偉い人々が考案した「地産地消」のお墓を見ることができます。たいへんおトクなスポットです。
さて、今回も俗な現代丹後人が考案した地産地消のおみやげ「ちりめんだより」からおすすめをご紹介します。そのものずばり「立岩」。2つのバージョンがありまして、高い青空の下に映える夏の「立岩」と、古墳を削った厳しい日本海の風雪に耐える「冬の立岩」です。
立岩 |
冬の立岩 |